私がクラウドに救われたとき

2016.10.30 岡田定晴
 メランコリア(作曲:Amacha)

 私が50歳代後半になると、毎年1回くらいのペースで結婚式の祝辞を頼まれるようになりました。また、一度だけですが、葬儀で弔辞を読んだこともあります。 仕事で深いかかわりがあり、よく知っている人ならスピーチの原稿を書くことはそれほど難しいことではありません。 でも、あまり知らない人の場合、その友人に聞いたり、あるいは本人に聞いたりして苦労しながら原稿を作成します。 しかし、いずれの場合も、その場にいる誰が聞いても感動的なスピーチにまとめあげることは至難の業です。

 苦労して書き上げた「原稿」いわゆる「第一稿」は、素敵なスピーチ・祝辞に辿り着く為の第一段階に過ぎません。出来上がった原稿を、何度も見返したり、人の意見を訊いたり、実際に声に出して読んでみたり、或は、それを仲間に聴いてもらったりします。結婚式の披露宴でスピーチを聴いている人々に少しでも私の思いが伝わるように、原稿の欠点に気がつくたびに修正しながら「完成原稿」を作り上げていくのです。 完成した「原稿」には、声の大きさ、気をつけて発音する部分、どこでどのくらいの間をとるか・・・など、どのように読むか、色や記号やメモで書き込んでいます。 気負いすぎと思われる方もいるかもしれませんが、本人や家族にとって記念すべき日のスピーチは、印象に残って感謝されなくては価値が無いと考えています。

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 精一杯努力して作り上げた原稿を、万が一にも無くしてはいけないと、バックアップ用に予備の原稿を2つ作り、本番用はモーニングの内ポケット、予備の原稿2つを手提げバックとズボンのポケットの中に入れ、 前日から体調を整え、会場には1時間以上前に到着し、スピーチを行う場所を確認します。そして念のために、自分の名前の読み方やスピーチの順番、タイミングなどについて司会者との打合せを行うなど慎重に準備をします。 こうした万全の準備をして、スピーチをした後、「感動した」「記念に原稿を下さい」などと言われると、ほんとうに引き受けて良かったと思うのです。ささやかな幸せと感動を覚えます。

結婚式と言う人生の大きな節目での祝辞。その重要な意味合いから、初めての時は勿論、その後も数回は慎重になります。でも、慣れは怖いものです。4回目から5回目ぐらいにもなると、うまくいって当たり前という感覚になりタガが緩みます。 今から数年前の日曜日。スピーチを頼まれた結婚式に出席するため、一眼レフのカメラ、ショルダーバック、スピーチ原稿(台紙に挟んだもの)の3つを持って家を出ました。 バックアップ用の予備の原稿は、本番用と一緒に台紙に挟んだままでした。式場に着くまでに、電車を2回乗り換えました。 恐らく、電車の座席に座ったときに、原稿を膝の上ではなく、隣の人との間に挟むように置いて、電車を降りるときに、カメラとショルダーバックに気をとられて、 原稿を忘れたのでしょう。その時は気付かずに、原稿が無いと気付いたのは、結婚式場の大きな建物が目に入った時でした。

 さて、一大事! 頭が真っ白になって、乗ってきた地下鉄の駅に戻ろうとしましたが、駅に行ったところですぐに手元に戻るわけではないし、 JRや私鉄で忘れたのかもしれません。手に持っていて、うっかり道で落としたのかもしれません。原稿なしでは、アドリブの利かない私の祝辞は、かなりのレベルダウンになり、多くの人の前で失敗して恥をかいてしまうかもしれません。 原稿を復元するにはどうすれば良いか、冷静になって考えたとき、家でスピーチの原稿を読み上げて練習した時の声がクラウドにあることを思い出しました。クラウドに自分の声をアップロードしたのは、通勤途上に電車の中で何度もiPadで聴くためでした。 すぐに喫茶店に駆け込み、自分の声を聴きながら、結婚式の案内状の裏の文字の書かれていない空きスペースに、小さな字で、「祝辞」を復元しました。 この間、約一時間。完成した時には、良く復元できたものだと、ホッとしました。

 字が小さくて読みづらい事に多少の不安を抱えながら、クラウドから書き起こした原稿のおかげで精一杯、心のこもった祝辞を述べることができました。 この時ほど、スピーチがうまくいってホッとしたことはありません。自分一人、大切な役割を無事果たせた喜びを静かに噛み締めていました。式が終わった後、新郎新婦、その御両親から感謝の言葉をいただいた時は、「クラウドに救われた。クラウドの信頼性に不安を持つ人も多いが、少なくとも、自分で持ち運ぶよりクラウドに預けることのほうがはるかに信頼できる。」と思いました。クラウドに救われた私の体験談でしたが、因みに後日談を申し上げれば、地下鉄、JR、私鉄、そして警察署に「落とし物」として届けたのですが、「原稿」はついに出てきませんでした。


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