広告



 恩讐の彼方に

       菊池寛

   



          二

 市九郎とお弓は、江戸を逐電してから、東海道はわざと避けて、人目を忍びながら、東山道とうさんどうを上方へと志した。市九郎は、主殺しの罪から、絶えず良心の苛責を受けていた。が、けんぺき茶屋の女中上がりの、莫連者ばくれんもののお弓は、市九郎が少しでも沈んだ様子を見せると、
「どうせ凶状持ちになったからには、いくらくよくよしてもしようがないじゃないか。度胸を据えて世の中を面白く暮すのが上分別さ」と、市九郎の心に、明け暮れ悪の拍車を加えた。が、信州から木曾の藪原やぶはらの宿まで来た時には、二人の路用の金は、百も残っていなかった。二人は、窮するにつれて、悪事を働かねばならなかった。最初はこうした男女の組合せとしては、最もなしやすい美人局つつもたせを稼業とした。そうして信州から尾州へかけての宿々で、往来の町人百姓の路用の金を奪っていた。初めのほどは、女からの激しい教唆きょうさで、つい悪事を犯し始めていた市九郎も、ついには悪事の面白さを味わい始めた。浪人姿をした市九郎に対して、被害者の町人や百姓は、金を取られながら、すこぶる柔順であった。
 悪事がだんだん進歩していった市九郎は、美人局からもっと単純な、手数のいらぬ強請ゆすりをやり、最後には、切取強盗を正当な稼業とさえ心得るようになった。
 彼は、いつとなしに信濃から木曾へかかる鳥居峠とりいとうげに土着した。そして昼は茶店を開き、夜は強盗を働いた。
 彼はもうそうした生活に、なんの躊躇をも、不安をも感じないようになっていた。金のありそうな旅人を狙って、殺すと巧みにその死体を片づけた。一年に三、四度、そうした罪を犯すと、彼は優に一年の生活を支えることができた。
 それは、彼らが江戸を出てから、三年目になる春の頃であった。参勤交代の北国大名の行列が、二つばかり続いて通ったため、木曾街道の宿々は、近頃になく 賑わった。ことにこの頃は、信州を始め、越後や越中からの伊勢参宮の客が街道に続いた。その中には、京から大坂へと、遊山の旅を延すのが多かった。市九郎 は、彼らの二、三人をたおして、その年の生活費を得たいと思っていた。木曾街道にも、杉や檜に交って咲いた山桜が散り始める夕暮のことであった。市九郎の 店に男女二人の旅人が立ち寄った。それは明らかに夫婦であった。男は三十を越していた。女は二十三、四であっただろう。供を連れない気楽な旅に出た信州の 豪農の若夫婦らしかった。
 市九郎は、二人の身形みなりを見ると、彼はこの二人を今年の犠牲者にしようかと、思っていた。
「もう藪原の宿まで、いくらもあるまいな」
 こういいながら、男の方は、市九郎の店の前で、草鞋わらじの紐を結び直そうとした。市九郎が、返事をしようとする前に、お弓が、台所から出てきながら、
「さようでございます、もうこの峠を降りますれば半道もございません。まあ、ゆっくり休んでからになさいませ」と、いった。市九郎は、お弓のこの言葉を聞 くと、お弓がすでに恐ろしい計画を、自分に勧めようとしているのを覚えた。藪原の宿までにはまだ二里に余る道を、もう何ほどもないようにいいくるめて、旅 人に気をゆるさせ、彼らの行程が夜に入るのに乗じて、間道を走って、宿の入口で襲うのが、市九郎の常套の手段であった。その男は、お弓の言葉をきくと、
「それならば、茶なと一杯所望しようか」といいながら、もう彼らの第一の罠に陥ってしまった。女は赤い紐のついた旅の菅笠すげがさを取りはずしながら、夫のそばに寄り添うて、腰をかけた。
 彼らは、ここで小半刻も、峠を登り切った疲れを休めると、鳥目ちょうもくを置いて、紫に暮れかかっている小木曾おぎその谷に向って、鳥居峠を降りていった。
 二人の姿が見えなくなると、お弓は、それとばかり合図をした。市九郎は、獲物を追う猟師のように、脇差を腰にすると、一散に二人の後を追うた。本街道を右に折れて、木曾川の流れに沿うて、険しい間道を急いだ。
 市九郎が、藪原の宿手前の並木道に来た時は、春の長い日がまったく暮れて、十日ばかりの月が木曾の山の彼方に登ろうとして、ほの白い月しろのみが、木曾の山々を微かに浮ばせていた。
 市九郎は、街道に沿うて生えている、一むらの丸葉柳の下に身を隠しながら、夫婦の近づくのを、おもむろに待っていた。彼も心の底では、幸福な旅をしている二人の男女の生命を、不当に奪うということが、どんなに罪深いかということを、考えずにはいなかった。が、一旦なしかかった仕事を中止して帰ることは、お弓の手前、彼の心にまかせぬことであった。
 彼は、この夫婦の血を流したくはなかった。なるべく相手が、自分の脅迫に二言もなく服従してくれればいいと、思っていた。もし彼らが路用の金と衣装とを出すなら、決して殺生はしまいと思っていた。
 彼の決心がようやく固まった頃に、街道の彼方から、急ぎ足に近づいてくる男女の姿が見えた。
 二人は、峠からの道が、覚悟のほかに遠かったため、疲れ切ったと見え、お互いに助け合いながら、無言のままに急いで来た。
 二人が、丸葉柳の茂みに近づくと、市九郎は、不意に街道の真ん中に突っ立った。そして、今までに幾度も口にし馴れている脅迫の言葉を浴せかけた。すると、男は必死になったらしく、道中差を抜くと、妻を後にかばいながら身構えした。市九郎は、ちょっと出鼻を折られた。が、彼は声を励まして、「いやさ、旅の人、手向いしてあたら命を落すまいぞ。命までは取ろうといわぬのじゃ。有り金と衣類とをおとなしく出して行け!」と、叫んだ。その顔を、相手の男は、じいっと見ていたが、
「やあ! 先程の峠の茶屋の主人ではないか」と、その男は、必死になって飛びかかってきた。市九郎は、もうこれまでと思った。自分の顔を見覚えられた以上、自分たちの安全のため、もうこの男女を生かすことはできないと思った。
 相手が必死に切り込むのを、巧みに引きはずしながら、一刀を相手の首筋に浴びせた。見ると連れの女は、気を失ったように道の傍にうずくまりながら、ぶるぶると震えていた。
 市九郎は、女を殺すに忍びなかった。が、彼は自分の危急には代えられぬと思った。男の方を殺して殺気立っている間にと思って、血刀を振りかざしながら、 彼は女に近づいた。女は、両手を合わして、市九郎に命を乞うた。市九郎は、その瞳に見つめられると、どうしても刀を下ろせなかった。が、彼は殺さねばなら ぬと思った。この時市九郎の欲心は、この女を切って女の衣装を台なしにしてはつまらないと思った。そう思うと、彼は腰に下げていた手拭をはずして女の首をくくった。
 市九郎は、二人を殺してしまうと、急に人を殺した恐怖を感じて、一刻もいたたまらないように思った。彼は、二人の胴巻と衣類とを奪うと、あたふたとして その場から一散に逃れた。彼は、今まで十人に余る人殺しをしたものの、それは半白の老人とか、商人とか、そうした階級の者ばかりで、若々しい夫婦づれを二 人まで自分の手にかけたことはなかった。


 広告



 彼は、深い良心の苛責かしゃくにとらわれながら、帰ってきた。そして家に入ると、すぐさま、男女の衣装と金とを、汚らわしいもののように、お弓の方へ投げやった。女は、悠然としてまず金の方を調べてみた。金は思ったより少なく、二十両をわずかに越しているばかりであった。
 お弓は殺された女の着物を手に取ると、「まあ、黄八丈の着物に紋縮緬もんちりめんの襦袢だね。だが、お前さん、この女の頭のものは、どうおしだい」と、彼女は詰問するように、市九郎をかえりみた。
「頭のもの!」と、市九郎は半ば返事をした。
「そうだよ。頭のものだよ。黄八丈に紋縮緬の着付じゃ、頭のものだって、擬物まがいものくしこうがいじゃあるまいじゃないか。わたしは、さっきあの女が菅笠を取った時に、ちらと睨んでおいたのさ。瑇瑁たいまいの揃いに相違なかったよ」と、お弓はのしかかるようにいった。殺した女の頭のもののことなどは、夢にも思っていなかった市九郎は、なんとも答えるすべがなかった。
「お前さん! まさか、取るのを忘れたのじゃあるまいね。瑇瑁だとすれば、七両や八両は確かだよ。駆け出しの泥棒じゃあるまいし、なんのために殺生をするのだよ。あれだけの衣装を着た女を、殺しておきながら、頭のも のに気がつかないとは、お前は、いつから泥棒稼業におなりなのだえ。なんというどじをやる泥棒だろう。なんとか、いってごらん!」と、お弓は、威たけ高に なって、市九郎に食ってかかってきた。
 二人の若い男女を殺してしまった悔いに、心の底までおかさ れかけていた市九郎は、女の言葉から深く傷つけられた。彼は頭のものを取ることを、忘れたという盗賊としての失策を、或いは無能を、悔ゆる心は少しもな かった。自分は、二人を殺したことを、悪いことと思えばこそ、殺すことに気も転動して、女がその頭に十両にも近い装飾を付けていることをまったく忘れてい た。市九郎は、今でも忘れていたことを後悔する心は起らなかった。強盗に身を落して、利欲のために人を殺しているものの、悪鬼のように相手の骨まではしゃ ぶらなかったことを考えると、市九郎は悪い気持はしなかった。それにもかかわらず、お弓は自分の同性が無残にも殺されて、その身に付けた下衣したぎまでが、殺戮者さつりくしゃに対する貢物として、自分の目の前にさらされているのを見ながら、なおその飽き足らない欲心は、さすが悪人の市九郎の目をこぼれた頭のものにまで及んでいる、そう考えると、市九郎はお弓に対して、いたたまらないような浅ましさを感じた。
 お弓は、市九郎の心に、こうした激変が起っているのをまったく知らないで、
「さあ! お前さん! 一走り行っておくれ。せっかく、こっちの手に入っているものを遠慮するには、当らないじゃないか」と、自分の言い分に十分な条理があることを信ずるように、勝ち誇った表情をした。
 が、市九郎は黙々として応じなかった。
「おや! お前さんの仕事のあらを拾ったので、お気に触ったと見えるね。本当に、お前さんは行く気はないのかい。十両に近いもうけものを、みすみすふいにしてしまうつもりかい」と、お弓は幾度も市九郎に迫った。
 いつもは、お弓のいうことを、唯々いいとしてきく市九郎ではあったが、今彼の心は激しい動乱の中にあって、お弓の言葉などは耳に入らないほど、考え込んでいたのである。
「いくらいっても、行かないのだね。それじゃ、私が一走り行ってこようよ。場所はどこなの。やっぱりいつものところなのかい」と、お弓がいった。
 お弓に対して、抑えがたい嫌悪を感じ始めていた市九郎は、お弓が一刻でも自分のそばにいなくなることを、むしろよろこんだ。
「知れたことよ。いつもの通り、藪原の宿の手前の松並木さ」と、市九郎は吐き出すようにいった。「じゃ、一走り行ってくるから。幸い月の夜でそとは明るい し……。ほんとうに、へまな仕事をするったら、ありゃしない」と、いいながら、お弓は裾をはしょって、草履をつっかけると駆け出した。
 市九郎は、お弓の後姿を見ていると、浅ましさで、心がいっぱいになってきた。死人の髪のものを剥ぐために、血眼になって駆け出していく女の姿を見ると、 市九郎はその女に、かつて愛情を持っていただけに、心の底から浅ましく思わずにはいられなかった。その上、自分が悪事をしている時、たとい無残にも人を殺 している時でも、金を盗んでいる時でも、自分がしているということが、常に不思議な言い訳になって、その浅ましさを感ずることが少なかったが、一旦人が悪 事をなしているのを、静かに傍観するとなると、その恐ろしさ、浅ましさが、あくまで明らかに、市九郎の目に映らずにはいなかった。自分が、命を賭してまで 得た女が、わずか五両か十両の瑇瑁たいまいのために、女性の優しさのすべてを捨てて、死骸に付く狼のように、殺された女の死骸を慕うて駆けて行くのを見ると、市九郎は、もうこの罪悪の棲家すみかに、この女と一緒に一刻もいたたまれなくなった。そう考え出すと、自分の今までに犯した悪事がいちいちよみがえって自分の心を食い割いた。絞め殺した女の瞳や、血みどろになった繭商人まゆしょうにんの 呻き声や、一太刀浴せかけた白髪の老人の悲鳴などが、一団になって市九郎の良心を襲うてきた。彼は、一刻も早く自分の過去から逃れたかった。彼は、自分自 身からさえも、逃れたかった。まして自分のすべての罪悪の萌芽であった女から、極力逃れたかった。彼は、決然として立ち上った。彼は、二、三枚の衣類を風 呂敷に包んだ。さっきの男から盗った胴巻を、当座の路用として懐ろに入れたままで、支度も整えずに、戸外に飛び出した。が、十間ばかり走り出した時、ふと 自分の持っている金も、衣類も、ことごとく盗んだものであるのに気がつくと、跳ね返されたように立ち戻って、自分の家の上りがまちへ、衣類と金とを、力一杯投げつけた。
 彼は、お弓に会わないように、道でない道を木曾川に添うて一散に走った。どこへ行くという当てもなかった。ただ自分の罪悪の根拠地から、一寸でも、一分でも遠いところへ逃れたかった。






底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
   1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:伊藤祥
1999年2月1日公開
2005年10月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
  • [#…]は、入力者による注を表す記号です。
  • 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
  • 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。


 広告