昭和・平成・令和を生きるsolar電卓

2019.10.28 岡田定晴
 時の残像(作曲:Amacha)

solar電卓
 つい最近、昭和58年(1983年)ころから使い続けてきた計算機が、机の引き出しに入っていることに気付きました。

その計算機は、当時、最新鋭のsolar電池と液晶表示による電池交換不要な『solar電卓』です。 縦112mm×横65mm×厚さ5mm、重量50gで、ちょうど手のひらに載る大きさです。

昨年の12月中旬からスマホを持つようになって、何か不便だと感じつつも、計算機はスマホのアプリを使っていました。

しかし、昔からずっと使ってきた『solar電卓』の方が何かと便利なので、再びこの計算機を使っています。 使い始めたのが昭和58年(1983年)ころですから、令和元年(2019年)で実に36年にもなります。 これ程の長期間に渡って、故障することも買い換えることもありませんでした。

 新しいものが次々に生まれては消える、それが昭和の後半から平成の時代の家電・通信・情報機器の宿命でした。 その中でこれほど寿命の長い商品は、ほんとうに珍しく、他にはありません。

昭和30年代以降を振り返ってみると、 テレビは、ブラウン管式の白黒テレビからカラーテレビ・液晶テレビ・ハイビジョンテレビへ、 音声録音機は、オープンリール・カセット・ラジカセ・ウォークマン・CDラジカセ・ICレコーダーへ、 カメラや映写機やビデオデッキは、8mmフィルムカメラ&映写機・βMAX・VHS・SVHS・Hi8・Blu-ray・半導体メモリやHDDによるカメラやスマホのカメラアプリへ、 電話機は、黒電話・PHS・ポケベル・携帯電話・スマホへ、 コンピュータは、8bitのワンボード、PC8801やPC9801の8bitや16bitの国産コンピュータ、 日本語の障壁を破るDOS-Vコンピュータ、Windowsを搭載したWindowsマシン、Mac、ノートパソコン、タブレットPCへ。 そのほかの装置も、目まぐるしく大きく変遷しました。

この発展の原動力は、集積回路・マイクロプロセッサ・インターネットが発明され、その発展がずっと続いてきたことによるものでしょう。

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情報通信革命とコモディティー化



solar電卓のテンキー
 こうした中で、『solar電卓』は、
・電池交換の必要無し
・光があれば動作する
・軽くて持運びに便利
・%、平方根、記憶機能(M+、M-、RM、CM)がある
・テンキーの感触良好
・軽量である
・softのVerUPが無い
などの特徴がありました。

solar電卓背面
電池交換が必要な装置だったら、電池切れを機に買い換えたかもしれません。 AC電源が必要な装置だったら、ACアダプターから伸びる電源ケーブルが切れて買い換えていたかもしれません。 消耗部品も故障もなく、それ以上の機能も必要が無かったので36年間も使い続けることができたのでしょう。

ただ、ケースの裏側を見ると、カバンの中の荷物に揉まれ、机の上から落ち、手から道路に落ち、 手のひらに擦られた歴史が残っていて、36年という重みを感じます。



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solar電卓とスマホの電卓アプリ
『solar電卓』とスマホのアプリの電卓を並べてみました。 『solar電卓』は縦112mm×横65mm、スマホの表示部は縦105mm×横60mmなので、ほぼ同じ大きさです。 『solar電卓』のテンキーは、スマホのテンキーより小さく、縦5個・横5個ですが、スマホは縦5個・横4個です。 『solar電卓』のテンキーは、接触ではなく、押して動作するものなので、小さくても間違うことはありません。 『solar電卓』は、釦の数が多い分、M+、M-、RM、CMなどの記憶機能があります。 私にとってはこの機能が不可欠です。だから、机の引き出しから『solar電卓』を見つけて、 こちらが復活したのです。

スマホの電卓アプリを横にすると
スマホの電卓アプリを表示したままスマホを横にすると、16桁の関数電卓になりました。 記憶機能もありますが、日常的にこのような計算をすることは無く、宝の持ち腐れになってしまいます。 ほんとうにシンプルなデザインの中に、高機能が詰め込まれている事には敬意を表したくなります。



 昭和58年(1983年)といえば、PC9801(1982年)やPC8801(1981年)が発売された時代ですから、 職場や家庭にコンピューターが入り始める、ほんとうに初期の時代でした。 これらのコンピュータは昔話として懐かしむものであって、今では実用には全く使い物にならなくなってしまいましたが、 その時代の『solar電卓』は、今でも十分に実用に耐えうるものなのです。

私の持っている『solar電卓』は、必要な目的のための『機能や性能』が十分であり、いつの時代も『究極のマシン』という感じがあり続けました。 電子機器でありながら、靴やカバンや財布、ベルトやメガネ、ソロバンのような存在でした。 まさに、昭和・平成・令和を生きる芸術品なのです。



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